哀しむ顔が頭から離れない。
今にも閉じそうな瞳。
涙が伝っていきそうな白い肌。
薄く開かれた紅唇から洩れた呟き。
離れない。
あいつの顔が。
――あいつの言葉が。
場末のバーは、俺にとって好ましい場所だった。
据えた煙草の匂い、アルコールの香り。
人との関わりを持とうとしない、関心を向けようとしない、男や女。
自分の身に厄災が降りかからなければそれでいい、とも言いたげな雰囲気。
そえこそが好ましく、俺にとっては都合が良かった。
からん……
グラスの中の氷が、微かな音を立ててウィスキーの海へ沈んだ。
琥珀色の酒。
それは、あいつの髪を思い出す。
光を具現化したかのような、明るく輝く長い髪。
細くしなやかな髪を撫でるのが、俺は好きだった。
今でも思い出すように、この酒を飲む。
この感情を、追憶や憧憬と言うのだろうか。
ひどく懐かしく、ひどく胸が締め付けられる、この想い。
俺は目を閉じると、ロングコートのポケットへと左手を忍ばせた。
ちゃり、と音を軽く響かせ指先に触れる冷たい物。
あいつの、遺した物。
そして俺とあいつを繋ぐ物。
息を緩く吐き出すと、俺はグラスに口をつけた。
その時。
ひどく唐突に背後に気配が生まれた。
「見つけたぞ……ユートゥス……」
気配はある。
けれど姿は背後にはない。
その証拠に、カウンターの中にいるバーテンダーは新聞なんぞを読みふけっている。
「裏切り者め……今までのうのうと生き長らえてようとは」
「えらい言われようだな?」
口の中で呟くように洩らす。
そのまま一気にウィスキーをあおると、グラスを置いてスツールから立った。
黒いコートの裾が大きく揺れる。
左手は、あれに触れたままだった。
「事実であろう……? お前は己の本質たる魔の血族を裏切り、そして今も敵対を続ける」
木の床に響くのは、俺の足音のみ。
闇から響く声はずっと背後から、耳元へと囁かれる。
常人ならば闇の囁きに誘われる者も多いだろう。
堕落への、快堕への誘い。
それは生の終わりを意味する。
「敵対なんざ、大した事してねえさ……」
ドアをゆっくりと開けると、そこは無人の荒れ果てた地だった。
見慣れた夜の街ではない。
「異界化、か……俺一人にご大層な事だな」
現実世界(アッシャー)との繋がりを断絶させる一種の結界。
異界は現実のしがらみを一切断ち切り、異形の者の領域となる。
「お前を消さねば……聖と魔の諍いは消えぬ」
ずるり、と実体化したのは壮年の男だった。
顔に刻まれた傷と、まとう雰囲気。
上等のスーツを着ているが、殺気は消えていなかった。
「俺がこうなる前よりもずっと昔から諍いは続いていた。それなのに、俺にすべてを押し付けようってのか」
「お前は新たな種なのだよ……争乱の、な」
男の人としての姿が崩れていく。
吼えるような声は鼓膜を激しくたたき、空を大きく振動させた。
声が収まりを見せた時。
男の姿はなく、そこには漆黒の体躯と翼を持つ豹がいた。
「第六界炎霧が三の将、オスヴァルト……参る!」
翼の羽ばたきは一瞬だった。
疾駆する身体は軽やかに、すさまじい速さで俺に肉薄する。
俺は軽く舌打ちを洩らすと右手を大きく虚空へと振りかぶった。
「我が眼前に広がるは凪。風なき静寂。無を以って羽ばたきを制す!」
口結を組み上げるのと、オスヴァルトが迫るのと。
それはほぼ同時だった。
俺の目の前を中心に風の起こらない、凪の力場が形成される。
翼での疾走は凪の力によって阻まれるものの、その鋭い爪は俺の頬をかすめていた。
「さすがにただの兵士ではない、ってところか……」
「仮にも将の任を預かる身。お前が今まで相手にしてきた者とは違う」
「いよいよ本気か……相当、俺が邪魔と見える」
自分でも、皮肉な笑みを浮かべるのがわかる。
頬の血を指で拭うと、俺はそれに舌を這わせた。
瞑目は僅かな瞬き。
力が眼に帯びる。
それは、俺の儀式。
他の誰も真似できない、俺だけの力。
「俺の事、少しは知っているだろう……? “告死の隻眼”の二つ名とか、な」
俺の魔としての力は、眼と血に宿った。
それゆえに俺の眼は血のような深紅色をしていた。
けれど。
今は。
「その眼は……!」
開かれた、俺の眼。
それを見たオスヴァルトの驚愕の声が、やたら遠く感じた。
「それは、聖の“浄眼”!」
右目は、苦痛と死を与える深紅の眼。
左目は、生と浄化を与える淡碧の眼。
まるで宝石のような、違う色を宿す。
「ああ、お前さんに奮発してやらあ」
「貴様! やはりあの聖の戦乙女を喰らったか!!」
左目が熱くなる。
俺の目の前に、白い羽が舞い落ちてくるのが見えた気がした。
「……なにも知らないで、そういう事を言うか」
凪の力場に重なって、淡い碧の光で紋様が描かれる。
それは一つの魔方陣を作り上げ、オスヴァルトを捕らえた。
――しかし。
「いかに私とて、このまま浄化の光に晒されるつもりなどない。この戦い、預けようぞ……ユートゥス!」
「逃がすかってんだ。この眼の事を知ったからには――!」
オスヴァルトの漆黒の身体が光に薄れていく。
だが、俺は知っている。
それは浄化を受けての消え方ではない、と。
この異界の領域から己の存在を消し、魔の階層へと戻るつもりなのだと。
光は、そこで溢れた。
「逃がした、か……」
光が収まると、異界化はすでに解けていた。
見慣れた夜の街の風景だ。
俺はコートの襟元を合わせると、左のポケットから手を引き出した。
指に絡む鎖は銀。
その鎖には艶のない銀色をした指輪が二つ、並んでいる。
「レティーツィア……」
あいつの顔が、離れない。
笑顔も、泣き顔も、そして悲しみの顔も。
「『共に』生きていこう……お前が願ったように」
言葉が、離れない――
「貴方と共に……それが、私の最後の願い……」
End.
あとがき
戦闘系限定なお題バトル再びですーっ。
2日連チャンで参加してきました(笑)
今回は参加人数も多く、かなりバラエティに富んだ内容となりました。
テーマは「異能者」、お題は「変身」「兵士」「羽」「魔」「血」「口紅」「異形」「荒野」から任意で4つ以上。
一応、全部使用しました。
今回は90分勝負でした。
危うく前日の続編を書きかけたので、慌てて軌道修正しつつ。
書きながら構想を練り直し、仕上げるまでに約90分。
2、3分残したところで書き上がりました。
聖と魔、両方の力を持つ存在を書きたくて。
それをわかりやすくするために瞳の色を異なるものにして。
かつて愛した女性の力をも得て、生きていく男。
こうしてユートゥスは生まれました。
これまでの私の作品では、ある種の強さを持った女性が多く描かれてきました。
それに対する反骨の表れだったのでしょうか。
ユートゥスが「男も捨てたもんじゃないだろう?」と言っている気がします。
頑張って、格好いい男性も書けていけたら、と思います。
同一お題参加者様
Aquaphoenix(ふっちょ)さん
siganeさん
神秋昌史さん
久能コウキさん
無我夢中さん
メェさん
ボブさん
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