「ああ……いい月だこと」

 冷たい夜気に包まれた闇の中。
 漆黒の長い髪を肩から流した女性が、月を見上げて呟いた。
 身体を包むのは、鈍い光沢のある黒い皮のロングコート。
 瞑想するように閉じたその双眸は、血のような深紅だった。










「ねえ、聞いた? 近くの公園で起きた事件のこと」
「あ、噂で聞いたかも。あれでしょ?」

 繁華街のファーストフード店の軒先で、少女らがバッグから財布などを取り出しながら何気なく言葉を口にしていた。
 話し掛けられた側の少女もまた、同じような口調で言葉を返す。

「首なし死体が転がってたとか、バラバラ死体があったとかいうやつ。ホントかな」
「でもオマワリたくさんいた公園とかなかった?」
「わっかんない。でもやだよねー。狙われたりとかしたくないね」

 購入までの暇つぶしの話題であったのか、少女たちは一際高い嬌声を上げて笑うともう興味はないかのように他の事に心を奪われていた。
 それっきりもう、それまでの話題の欠片さえも口唇から発せられる事はない。
 そのファーストフード店の前を通りかかった女性は、ヒールの音を立てて立ち止まると空を仰ぎ見た。
 昼下がりの曇り空。
 薄鈍色の雲が空を覆い、青と白の色彩さえ見えない空。
 淡く白い息を吐き出すと、女性はごく小さな声で呟いた。

「……今夜、ね」

 艶やかな黒の髪を揺らし、黒い皮のロングコートの裾を軽く翻し、高いヒールを軽やかに鳴らして。
 漆黒の双眸はもう、空を見ていない。
 少女たちの嬌声を背に、女性は歩き出していた。










 深夜。
 それは静寂と夜闇が支配する時間。
 冬の冷たい風が枯れ木の枝を揺らし、音を奏でる。
 その冬枯れの枝音の中に、異音が混ざっていた。

ぴちゃり、ぴちゃり……

 なにかの液体が滴り落ちる音。
 時折啜るような音さえも響く。
 人気のない闇に紛れた公園。
 雲間から月が見えた時。
 音の主が明かりに晒された。
 口と手をべっとりと血に濡らし、うっとりと恍惚の表情を浮かべる男が一人。
 その足元には、かつて人であっただろう身体がただの肉塊と化し血溜まりを作り出している。
 男が散漫な動きで腕を奮うと、鈍い音を立てて肉塊の首を引き千切った。
 新たに迸る黒赤色の液体に笑むように、光彩のない闇色の目を細める――が。

「お前ね……ここ最近の猟奇的殺人を起こしているという異形は」

 風さえも、気配さえも感じさせずに男へと声をかけた存在があった。
 男の背後に位置する階段に、かつ、という高いヒール特有の音が一度だけ鳴る。
 そして冴え冴えしさすら感じさせる、冷たくも鋭い女性の声。
 男は、もぎ取った頭部をその手から離し、ゆっくりと振り返った。
 階段の最上段に、鈍い光沢の黒い皮のロングコートを纏った姿があった。

「……誰だ? 俺の食事の邪魔をする、お前は」

 低く、地の底から響くような男の声。
 血で彩られた頬、口、襟元……そして両手。
 闇色の双眸は剣呑さに細められ、口元は笑みに歪んでいた。

「さしずめ同類、と言ったところだけれど……」
「相容れぬ同類……か」

 女性もまた、口唇を笑みの形に結ぶ。
 艶のある薄紅色の口唇の端からは、僅かに尖った牙が見えた。

「今宵は満月《フル・ムーン》……月の満ちる夜。そして……」

 女性は静かに右手で、何もない虚空を横に薙いだ。

「そして、力の満ちる夜」

 漆黒の瞳は、深紅へと変貌した。










 横に薙いだ手は、そのまま風を生んだ。
 それは鋭さを持った疾風となり、男に襲い掛かる。

「いきなりなご挨拶だ……」

 男は半身ずらして疾風の軌道から己を逸らすと、足元の人であった肉塊に靴の爪先をかけた。
 そしてさもつまらなそうに、面倒臭そうに言葉を継ぐ。

「そして……狩られるわけにはいかないんだよ。たとえ同種の異能者とはいえ」
「私とて、好き好んで同種狩りをしているわけではないわ」

 女性は軽く目を伏せ、一歩踏み出した。
 その爪先は階下の段差を捉える事はなかった。
 まるで重力を感じさせないように、女性の身体がふわりと舞った。
 ロングコートの裾を大きくはためかせ、ゆっくりと男と同じ高さに降り立った。
 それを見計らったかのように、男は肉塊を勢いよく蹴り上げた。
 鋭い軌道を描き、女性の顔めがけてその肉塊は飛んでくる。

「ただ、お前のような嗜好の持ち主が騒ぎを起こすと……」

 かなりの重さがあるはずの肉塊。
 けれどそれは、人が出しえない速度を以って飛来した。
 女性は顔色ひとつ変えず、涼やかな声音、表情そのままに左手を眼前にかざした。

「好む好まざると、住みにくくなってしまうのよ。私は、それを避けたいだけ……」

 女性の左手に淡く蒼い燐光が宿った。
 その次の瞬間。
 かつて人であった肉塊は音もなく砂のように崩れ去っていった。
 血も骨も、肉体さえも一握の砂となり、僅かに吹いた冬の風に散らされる。
 そしてその蒼い光は肉塊を砂と化しただけでなく、男の身体をも貫いていた。

「バカな……お前の、その力は……っ」

 胸に穿たれた風穴を、男は驚愕の表情で見遣った。
 震える手で自らの胸を押さえ、うめくように声を絞り出した。
 他人の血に濡れた手と、血の流れない傷痕。
 ひどくアンバランスな光景で対照的だった。

「その力、その血色の眼……」

 みるみるうちに力を失っていく、男の声。
 胸の傷はそれを基点に身体を蝕んでいき、さらり、と灰が風に舞う。
 散っていく身体の灰を抑えるように手を大きく広げ、男は大きく息を吸い込んだ。
 ひゅう、と異音が混ざる声はかすれている。

「お前が、そうなのか……お前が。刻(とき)を渡る異能者……」
「――そんな呼ばれ方もしたわね」

 長い黒髪が、風に揺れた。
 頬を撫でていく冬の冷たい空気は、傍らの植え込みの枝をも揺らしていった。
 その枝から音もたてずに落ちる花。
 花弁が散る事もなく花としての生を終える、椿。
 赤い椿が落ちた時、男の身体はすでに崩れ去っていた。

「椿姫《フラウ・カメリエ》が相手では、な……」

 それが男の最後の言葉だった。










 椿姫と呼ばれた女性は、夜闇の空を見上げた。
 中空にかかる月は満ちており、力強い光を降り注いでいる。

「ああ……いい月だこと」

 足元に落ちていた赤の椿は、今は彼女の手の中にあった。
 ゆっくりと手を閉じていくと、花弁から赤い色が失せ、そして儚く花弁を散らした。
 血のような深紅の双眸は、満月を見つめている。
 刻渡りの異形である彼女に安寧は、まだ訪れない。
 吐き出した息はどこまでも白かった。




















   End.


あとがき

ものすごく、難産でした。
企画用に立ち上げたプロットは、2つだか3つだか破棄しまして。
締め切りが近くなってからも結構悩んだものです。
そして、下書きのファイルが行方不明になる事しばし。
クリスマスを過ぎた頃、本気で困っていました。
ある夜、見上げた満月がとても綺麗でした。
月の満ち欠けをモチーフにした異能者のお話がその時、頭の片隅にぽろっと生まれました。
それがこの「カーバンクルの月」です。
カーバンクルとは、カボッション(半球状)にカットしたガーネット(柘榴石)の事を指し示します。
紅い月の別名として名付けてみました。
最近お馴染みとなっている現代オカルトですが……
少しでも楽しんでいただければ幸いです(ぺこり

突発性競作企画「紅」参加作品
突発性企画「紅」


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