「にゃぁん」
僕の腕の中に大人しくおさまっている黒猫が一声鳴いた。
じっと見つめる双眸はどこまでも澄んだ緑色をしていて、まるで海の碧のようだった。
さり、と僕の頬を黒猫は舐める。
知らず零れ落ちたひと筋の涙の軌跡を消すかのように。

僕が黒猫と出会ったのは、ちょうど一週間前だった。
夜明けに空が白んできた頃。
吐き出す息がどこまでも白く空気に溶けていく、寒い日。
将来を誓い合った彼女を一年前に亡くした僕は、心の隙間を少しでも埋めようとしていた。
病が彼女を奪っていった。
誰が悪いんじゃない。
誰を恨んでも意味がない。
――けれど。
僕の心のどこかに昏い思いが生まれていた。
なぜ彼女の命が奪われなければならなかったのだろうか、と。
なぜ僕を置いて逝ってしまったのだろうか、と。
そんな思いを抱えたまま酒を飲んだ帰り道。
黒猫は僕の目の前にいた。
車の通っていない道路の真ん中に小さく座り込んでいる黒猫。
「にゃあ」
僕を見上げると、わずかに高い声で鳴いた。
大きさは両手より少し大きいくらいだろうか。
成猫になりかけの子猫って感じだ。
「にゃあ」
動かない僕を見て、黒猫はもう一声鳴く。
まるで構え、抱き上げろ、と言っているようだった。
僕は溜め息混じりに膝を折った。
そして黒猫に手を差し伸べてやる。
自分でも苦笑いの表情を作っているだろう、というのがわかる。
なんで言いなりになるように手を出したんだろう。
「にゃぁ……」
さり、と指先が軽く舐められる。
温かな感触。
「え……?」
不意に起こる錯覚。
彼女は手をつなぐ、というよりも指に触れ、そっと掴むのが好きだった。
彼女が触れているような感覚に陥った。
どうして――
彼女はもういないのに。
目の前には黒猫がいるだけなのに。
「お前……?」
どうして――
もう一度沸き起こる疑問。
どこか否定したくて。
そして、どこか肯定したくて。
「まさか……まさかな。そんな馬鹿げた話があるわけない」
「にゃん」
黒猫は僕の疑問なんかお構いなしに膝の上に飛び乗ってきた。
そして微かに手に触れる、冷たい感触。
「ん? お前なにつけて……」
ひょいと抱き上げて、僕はぎょっとした。
黒猫の細く小さな左の前足に、銀色に光る指輪のような輪っか。
それがまるで足輪のようにはめられていたのだ。
動物に対するイタズラにしてもタチが悪い。
触れてみればくるりと回るほど緩いのに、外そうとすればどこかが引っかかるのか抜けやしない。
「にゃっ!」
僕の外そうとする動きが痛かったのか、何か気に障ったのか。
黒猫は抗議の声を上げて身をよじる。
そのついでか、猫キックまでかましてくれた。
「っと、悪い悪い。でもなんで外れないんだか……」
僕は黒猫の小さな身体を抱えたまま立ち上がった。
「お前、一緒に来るか?」
「にゃん」
僕の問いかけに、黒猫はさも当然といった様子で鳴いた。
腕の中で小さく喉を鳴らし、逃げ出す様子もない。
「よし、寒い我が家に帰るか」
こうして、一人と一匹の生活が始まった。
そして一週間後の今日。
十二月二十四日、クリスマス・イブ。
僕はある場所へ出かけようと準備をしていたところに、黒猫がコートのポケットに潜り込んできた。
「こら。今日はお前を連れて行けないんだから」
「にゃぁ」
軽く叱りつつ外に出す。
けれど黒猫は何度でもポケットに侵入しようとする。
それを阻み、外へ出せば出すほど抗議の鳴き声は強くなっていく。
「お前が行っても楽しいところじゃないんだぞ? それとも名前がまだない腹いせか?」
半ば諦めモードに入った僕の手から逃れると、黒猫はすっぽりとポケットにおさまってしまう。
そして嬉しげに喉を鳴らした。
「仕方ないな……一緒に行くか」
「にゃん」
肌に突き刺すような冷たい風。
僕は知らずコートの襟元を合わせ、申し訳程度に巻いていたマフラーをポケットに突っ込んだ。
少し非難するような鳴き声が聞こえたような気もしたけれど、風邪を引かれるよりマシだ。
僕は歩いた。
雲が風に流される星空を時折見上げながら、歩いた。
すれ違うのは家路を急ぐサラリーマンや、仲の良さそうなカップルたち。
僕は一人きりだった。
いや、正確には一人と一匹か。
ずいぶんと歩いた僕たちは、ようやく目的の場所へとたどりついた。
そこはイルミネーションに飾られた公園。
僕と彼女との、思い出の場所。
幾度となく待ち合わせ、別れを惜しんだ場所。
彼女と初めて出会った場所であり、そして外で最後に見送った場所。
途中で買った温かい缶コーヒーを手に僕は隅っこの方にあるベンチに腰をおろした。
自分の気持ちの整理がつくまで、ここにはずっと来れないと思っていた。
でも今の気持ちはなんだか不思議なものだ。
思い返すたびに辛く胸を締め付けられる思いが、今はない。
ただ、彼女と出会えた事に感謝する自分がいる。
ぬるくなり始めてしまった缶コーヒーを開けようとした時。
ふと左手の指輪に視線が止まった。
彼女とのペアリング。
外してしまおうかとも思ったけれど、どうしても外せなかった。
これも未練なのだろうか?
「うにゃん」
ポケットの中でそれまで大人しくしていた黒猫がジタバタと外に這い出してくる。
身体を軽く毛繕いすると、ごく自然に腕の中におさまった。
「苦しかったのか? さっきまで大人しかったくせに」
背中を撫でようと手を伸ばすと、逆にその手にじゃれつこうとする。
僕は苦笑しながら手首をホールドされてやった。
つかませたまま、指先で喉を軽く撫でると嬉しそうに目を細めて喉を鳴らす。
彼女も撫でられるのが好きだったっけ……
感傷にひたりかけた僕の意識を引き戻したのは、冷たく触れた前足の銀の輪だった。
「ちょ……待てよ。まさか、いくらなんでもこれは……」
単なる偶然なのか。
その銀の輪は、僕の手にある指輪とデザインがまったく同じだったのだ。
今までよくよく見る事がなかったから気づかなかった。
気がついた今は何かの間違いだと思った。
よくあるデザイン、偶然の一致にすぎないのだと結論づけようとして。
僕は思い出した。
――彼女のオリジナルデザインで、世界にたった二つしかない指輪だという事を。
「嘘だろ……まさか、こんな事って……」
「にゃあ」
「なんでお前が……なんでお前がこの指輪を持っているんだよっ」
そうだ。
この指輪は、僕と彼女をつなぐ絆のはずだった。
片割れはとうに地に還ったと思っていたのに。
「にゃん」
きつく握り締めた震える拳を、黒猫は静かに舐めた。
いつまでもいつまでも舐め続けた。
それはまるで、不意に湧き上がった激情を静めるかのように。
彼女が僕を、優しく諭していたように。
「……、……なのか?」
彼女の名前を呟く僕を、黒猫はじっと見つめる。
物言わぬ緑の双眸に僕が映り込む。
神の気まぐれだろうか。
悪魔の悪戯だろうか。
偶然なのか。
必然なのか。
黒猫は僕の腕を踏み台にすると静かに頬寄せた。
それは優しく触れるキスのように。
すべてわかっているかのように。
「……そうだな。今日は彼女の誕生日だったな」
僕はぎゅっと力を込めて黒猫を抱き締めた。
「にゃあ」
黒猫は嫌がりもせず、甘えるように額を僕の頬にこすりつける。
単なる気のせいかもしれない。
僕の弱さが見せた思い込みかもしれない。
――でも。
今この腕の中にいる黒猫がとても温かかった。
「お前の名前は……」
公園を照らす明かりに、僕たちの指輪が光を反射した。
End.
あとがき
執筆の神様不在による、長らくのスランプ。
気がつけば月日は流れ、クリスマスに年末になってしまいました。
年末年始はイベント系短編を書きたくなってしまう癖のある私。
突如としてやる気が沸いてきたので、勢いに任せて書いてみました。
久々の執筆なのでプロット等甘い箇所もあると思います。
復帰作としては悲恋にならなかっただけマシかな……?
でもちょっと悲恋要素強いかも(どっちだ
そんなこんなでお届けします、2005年クリスマス短編。
少しでも楽しんでいただければ幸いです(ぺこり
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