断章 ―交わす盃―











 その日は、随分と外が賑やかだった。
 神奈川県鎌倉市。
 鶴岡八幡宮への参道である段葛。
 その傍らには多くの土産物屋や飲食店などが軒を連ねている。
 段葛から少し外れた、奥まった細い道。
 小さな香具を扱う店があった。
 しかしその店の本質は香具店などではない。
 それは、主が物語っていた。
 店の奥に位置する居間で、主たる吉野慧(よしの・けい)は新聞に目を落としていた。
 少し襟足の長い髪に、涼しげな双眸。
 それはどちらも艶のある漆黒をしていた。
 容貌はどこまでも中性的で、見る者を魅了するほどだ。
 吉野は時折、左腕に嵌められた時計に視線を走らせる。
 微かな音を立てて時を刻む壁の時計は、もうじき零時を指し示そうとしていた。
 今日は、大晦日。
 もうじき日が変わり、新たな年を迎えようとしていた。
 けれど、吉野はどこへ行くでもなく、テレビなどをつけるでもなく、ただ新聞を手にしていた。
 かと言ってその新聞もとうに目を通し終わってしまっていて、ただ惰性で眺めているに過ぎない。
 新聞に触れる音と、壁時計の秒針の音と。
 それらだけが静かに響く部屋。
 吉野は飲もうと思って手を伸ばしたカップからコーヒーが飲み干されてしまったのを見て、ほんの少しだけ苦笑を洩らした。

「随分長い事、ぼんやりしてしまっていたな……」

 時計の二つの針が、もうじき頂点を指す。
 部屋は相変わらず静かだった。
 新聞を置き、コーヒーを淹れ直すためにソファから立ち上がる。
 外は一層賑やかさを増したようだ。

「もう年も明ける、か……」

 吉野はカップを手に、窓際までゆっくりと歩を進めた。
 表通りからは離れているが、外の人々の喧騒は部屋まで届いていた。
 音を立てて窓を開けた時。
 ちょうど日付が変わったようだ。
 楽しげなざわめきが耳に心地良いように、吉野は微かに瞑目した。
 吐き出す息は白いが、夜空には雲ひとつかかっていない。
 昔に比べれば見える星は随分と減ってしまったらしいが、それでも夜気に澄んだ冬は多くの星が見える。

「随分無用心なんだな」

 かたん、と音を立てて部屋のドアが開く。
 姿を見せたのは、黒いスーツに黒いコートの男性だった。
 声を聞き留めると、吉野は窓の外へ向けていた視線を室内へと戻した。

「盗まれて困るようなものなんて、ないしな」

 僅かに唇を笑みの形に結ぶ。

「珍しいな……西園寺の方から顔を見せるなんて」

 名を呼ばれた男性――西園寺聖月(さいおんじ・みづき)は少しバツが悪そうに吉野から視線をはずした。
 左手を腰に当て、右手に持っていた包みをぶっきらぼうに差し出す。

「同業者に挨拶回りしてるだけだ。いらんなら持って帰るぞ」

 歳は吉野よりも少しばかり上に見える西園寺。
 ぞんざいな口調は、二人とも良く似ていた。

「……何を持って来たかによるな」
「自分で確かめろ」

 少し重たげな音を立て、テーブルに置かれた包みは縦に長かった。
 吉野は窓を閉めると歩み寄り、カップを置いて包みをゆっくりと解いていった。
 中身が露わになる。
 柔らかな紫紺の布で包まれていたものは、日本酒の一升瓶であった。

「嘉泉の大吟醸か……悪くない」

 吉野は自分でも自然と顔がほころぶのがわかった。
 西園寺が挨拶にと持参したのは、吉野好みの辛口の吟醸酒だったのだ。

「年始の挨拶代わりだ。慧には何よりも酒の方がいいと、どこぞで聞いたからな」
「どこで聞いたんだ、そんなこと……」

 声に出して洩れる笑み。
 珍しい物を見た、と西園寺は思わず吉野をまじまじと見てしまった。
 あまり正の感情を表に出さないのはお互い様なのだが、それでもこのように笑みを見せる吉野は数えるほどしか見た事がない。
 やがて視線に気付いたのか、吉野は酒瓶から顔を上げて西園寺に向き直った。

「いつまで突っ立ってるんだ。入って来い」
「……随分な物言いだな」
「挨拶ついでに、少し付き合え」

 手にしていた酒瓶を置き、吉野は部屋の奥へと歩いていってしまう。
 西園寺は軽く嘆息するとコートを脱いでソファへと身体を預けた。
 ハンガーらしき物は見つからなかったので、コートは仕方なく傍らに投げ出す。

「ったく……強引だな」
「そう言って付き合う西園寺も西園寺だろう」

 戻って来た吉野の手には、グラスが二つといくつかの皿があった。
 野菜と凍り豆腐で作った煮しめ、鰤の西京焼き。
 そして銘々皿を二つと箸を二膳。

「今夜は西園寺の苦手な八咫(ヤタ)もいない」
「俺がいつ苦手だと……っ」
「八咫がいる時に来たためしがないじゃないか」
「行く必要がないからだ」

 軽口を叩き合いながら、二人はそれぞれ準備を進めていく。
 吉野は皿を並べ、西園寺はグラスを並べて日本酒の封を切る。
 落ち着いて座ったあたりで西園寺は吉野へと酒を注いだ。

「去年はお互い良く働いたな」

 返杯とばかりに今度は吉野が西園寺のグラスへと注ぐ。

「現場で鉢合わせた事もあったな、確か」
「それは流せ」

 西園寺の言葉に、吉野は思わず苦笑した。

「ともあれ、新年だ」
「明けたな……今年もよろしく、西園寺」
「ああ、こちらこそな……慧」

 グラスが、軽く触れ合った。

「朝まで付き合ってもらうぞ」
「ちょっ、待て、俺は……」

 夜明けまで、あと数時間。












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