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第二章 懐かしき笑み
―Nostalgic smile―











 199X年、東京。
 新宿区新宿。
 東京でも指折りの歓楽街として名を馳せる歌舞伎町の、道を隔ててすぐ隣に位置する妖魔辻。
 そこはごく限られた者しか行き来できない不思議な一角。
 その妖魔辻でも少し裏の、ややひっそりとした場所にそれはあった。
 多少こじんまりとした店構え。
 看板には流れるような書体で『Alexandrite』と書かれていた。
 外観から察する事は少し難しいが、カクテルを中心としたアルコール類を扱うバーであり、経営者は珍しくも若い女性であった。
 この店の名前は宝石からそのまま名付けられた。
 当たる光によりその色を変えるという不思議な宝石、アレキサンドライトからだ。
 表と裏の顔を持つ、すべての者たちを象徴するかのように。
 店に集う者たちを、世間の目から隠すかのように。
 そして経営者自身を指し示すかのように。

 カラン……

 店の唯一の扉についているベルが小さくなった。
 時間は午後六時を少しまわった頃。
 店が開くには少々早い時間帯だ。
 実際のところ、このアレキサンドライトも一日の仕事を終えた者たちに合わせるかのように午後八時を過ぎてから開店する。
 その時間よりも前に店を訪れる人物といえば、ごく僅かに限られてくる。
 経営者の個人的な知り合いか、もしくは経営者と店の常連客に対しての『裏』の仕事の依頼人か、という事になる。

「すみません、オープンはまだ少し先なんですが」

 ベルの音に反応し、カウンターの中でなにやら作業をしていた女性が扉の方へと振り向き様に申し訳なさそうに言った。
 よく通る、澄んだアルトの声。
 光の加減で亜麻色にも見える金茶の長い髪を首の後ろできっちりと結び、瞳は濃紺とも言えるほど深い蒼の色。
 そして女性にしてはやや高めに思える身長と、洗練された身のこなしとルックス。
 かなりの美人に分類されるだろう。
 彼女の名は、一条颯姫(いちじょう・さつき)。
 この店アレキサンドライトの経営者にして、ただ一人のバーテンダーだ。
 すらりとした長身に、黒のスーツがよく似合う。
 普段はあまり表情を崩す事のない彼女だが、今回ばかりは違った。
 扉を開けて店内に入ってきた人物を見るなり、一瞬の驚きから心底嬉しそうな表情へと変化した。

「お久し振りね、颯姫」

 姿を見せたのは、神秘的さを感じさせるような女性であった。
 艶のある、心に染み入るような声。
 腰ほどまである長く艶やかな黒髪をそのまま流し、けぶるように長い睫毛に彩られた双眸は僅かに紫がかった漆黒。
 女性らしい身体の曲線を際立たせるかのようなデザインの純白のスーツに身を包んでいる。
 しっとりと艶のある大人の女性の魅力と落ち着いた雰囲気を持ち合わせた、颯姫とは違った意味での美人だ。

「珍しいですね。楓さんが京都からいらっしゃるなんて」
「あら、そんなに珍しいかしらね。たまの仕事でこちらに来る事もあるというのに」

 颯姫と親しげに言葉を交わしたのは、紫城楓(しじょう・かえで)。
 京都市上京区のとある裏通りに店を構えるショットバー『ロードナイト』を経営する、年齢不詳の女性だ。
 オーナーという立場であると同時に、自らもカクテルを作る。
 そして颯姫の『表』と『裏』、そのどちらの面でも師匠とも呼べるべき存在であった。
 紫城の下へと颯姫は六年前に身を寄せたのだが、その当時から今現在に至るまで彼女の容貌は寸分も変わる事なく美しい。
 おそらくはそれ以前からそうなのであり、これからもずっと変わらないのだろうと不思議と颯姫は確信を得ていた。
 颯姫は、地水火風空の五大元素の力を借りて魔術を行使する『妖術師』である。
 修得している呪文印の分野の属性が火なので、それぞれの元素になぞらえて『焔法師(えんぽうし)』とも呼ばれていた。
 軽い体捌きを活かしての拳法をも会得しているのだが、これは紫城を師と仰いでいる。
 対する紫城は、地水火風の精霊と契約を交わし、異界から精霊たちを召喚し操る事のできる『召喚師』だった。
 四種すべての精霊と契約を結び、それぞれの最上位たる精霊をも召喚できるほどの力量を持っている。
 それに加え、暗器の扱いを主とした拳法に長けていた。
 ――そして。
 奇しくも二人は妖魔の血をその身に色濃く受け継ぐ『妖魔純血種』でもあった。
 颯姫の父は、少なからず妖魔の血を宿しつつもそれを滅ぼす役目にある術者でありながら、妖魔であった女性を愛し、愛された。
 紫城の父は、自らは人と敵対する妖魔の身でありながらも、己を滅する事のできる召喚師の女性を愛し、そして彼女もまた彼を愛した。
 人と妖魔との混血。
 互いに受け入れる事のできない、種族同士の哀しい象徴。
 理解という感情を得た結果なのか。
 それとも単なる一時の戯れだったのか。
 その妖魔の血の証。
 妖魔純血種である者は、他の妖魔血種とは比較にならないほどの血を濃く受け継いでいる。
 そのために身体のどこかに親の特徴を――妖魔の血の証の痕跡を持つという。
 颯姫は左胸に翼をかたどったような痣があり、紫城はその背に翼の痕跡がある。
 人であり、妖魔であり。
 人ではなく、妖魔ではなく。
 どちらでもあり、どちらでもない存在。
 多くの涙は闇に消えて行った。

「楓さんがこの店にいらしたという事は、私になにかご用でしたか?」

 バックバーに並べてある酒瓶から必要な物を選び取り、氷と共にシェーカーに入れていく。
 シェーカーは小気味良い音を立てて振られる。
 その動作は、まるで颯姫の腕の一部のようにしなやかだった。
 ブランデーグラスに中身を注ぎ、最後に丸氷を静かに沈める。
 夜闇のような漆黒の海に、丸氷が月のように見えた。
 満たされぬ月。
 ハーブ・スピリッツの別名を持つアクアヴィットをベースとしたカクテルだった。
 カウンターに腰を落ち着けた紫城に対し、颯姫はすっと音も立てずにグラスを差し出した。
 氷が微かに揺れる。
 それを受け取った紫城は一口味わい含み、グラスを静かに下ろした。
 心地良いアルコールの刺激が喉元を通り過ぎていく。
 すべてが身体に染み渡ると、紫城は軽く微笑んだ。

「可愛い弟子の顔を見に来るのに理由は必要かしら。もっとも、今回はあなたに会わなくてはいけない訳はあるのよ」
「理由……?」

 僅かばかり首を傾げた颯姫に、紫城は笑みを崩さなかった。

「カクテルの腕は上がったようね。この満たされぬ月……味わいのバランスがよく取れているわ」
「ありがとうございます」

 紫城のさりげない言葉に颯姫は思わず相好を崩した。
 自然とこぼれた微笑みは、一見して中性的な印象を与えがちな颯姫を女らしく見せた。

「さて、と。颯姫特製のカクテルも堪能した事だし……肝心の話へ移りましょうか。あなたの判断次第では、今日はお店を閉めてもらわなくてはならないから」
「……え?」

 あまりにも唐突な紫城の言い様に、颯姫は思わず聞き返した。
 表情は面食らったように微かな驚きが見て取れた。

「私の判断次第、て……どういう事ですか」

 しかし蒼の双眸は、真っ直ぐと紫城を見つめる。

「もしかすると、あなたのご両親と妹さんの弔い合戦ができるかもしれないのよ」

 紫城の深い思惑のもとにもたらされた言葉。
 それを鍵に、不夜城都市たる東京は新宿の街に長い夜が訪れようとしていた。












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