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第六章 このひと時だけ
―Only at this o'clock of one―











 びくん、と紫城は突然身体を震わせた。
 まったくなんの前振りもなかった。
 悪寒が走るような感覚を受け紫城は何かを感じ取ろうと、あまたの人々よりも優れた自らの鋭敏な感覚をゆっくりと、ゆっくりと研ぎ澄ませていく。

「楓さん? どうかなさったんですか。お身体の調子でも……」

 不意に紫城が黙してしまったのを見て、颯姫は心配そうに声をかけた。
 何気なくふと触れてみた紫城の手は氷のように冷たかった。
 颯姫は紫城の『気』が戦いの時のように急速に膨れ上がりつつある事を悟った。
 なんら霊的な感覚や能力を持たない人間は見る事すらも叶わない、不思議な『気』――俗にオーラと呼ばれるものが紫城の身体を柔らかく包み込み、炎のように揺らぐ。
 なんとも色鮮やかな、朱金の輝きを持つ炎。
 そして紫城は、濡れたように艶やかな口唇から何事かを呟いた。

「天と地とその狭間
 異なる世界に棲みし者
 精霊たちよ
 静かなる地の精霊
 清らかなる水の精霊
 勇ましき火の精霊
 自由なる風の精霊
 己が力を持ちて我が元へ集い
 すべての魔力を阻む壁となれ
 四種の精霊、『四精壁(しせいへき)』よ!」

 触れただけで切れてしまいそうなほど、ぴんと張り詰めた静寂が、空間が、そこにあった。
 すべての魔力を無効化してしまう壁が、地水火風の四種の精霊により不可視のものとして形成されたのだ。

「楓さん……?」

 紫城によって魔術の干渉を拒む壁が創成された事はわかりつつも、颯姫はその状況を今一つ理解できていない。

「颯姫、静かに」

 まだ何かを問いたげな様子を見せる颯姫を片手と短い言葉だけで制し、紫城は自らの意識をさらに鋭角なものへと変えていく。
 四種の精霊の力から成る壁は数秒で消え去り、あとには魔力の欠片さえも残っていなかった。
 それを確認すると、紫城は無意識のうちに身体に込めていた力をゆっくりと抜いた。

「――どうやら、私の行動は監視されていたようね。あれはブラックワード……千里眼の魔術」
「魔術が……?」

 颯姫はひとしきり思案するが、該当する魔術は思い浮かばなかった。

「ええ、ウィザードの魔術、GRASP(グラスプ)だわ。望む場所を見通すもの、千里眼。颯姫はまだ面識のない魔術でしょうね、ブラックワードは」
「でもなぜ、楓さんはその魔術が行使された事がわかったんですか?」

 紫城に師事し己を鍛錬していた頃に、数ある魔術系統のノウハウについてそれなりに詳しくレクチャーされた颯姫なのだが、なにぶん術者として仕事をこなしてきた経験がまだ浅いため、わからない事も多い。
 小さく微笑むと、紫城は説明を続けた。

「あなたも何度か聞いた事があるとは思うけれど、感知系の魔術の中には魔力の存在を感じ取る事のできるものがあるのよ。颯姫も会得しようと思えばできるわ」

 しかし言い終えるや否や、一呼吸置いて紫城は厳しい表情になった。

「けれど厄介ね……あちらさんに颯姫の存在が知られたかもしれない。おまけに、こちらの行動は多少なりとも筒抜けだと思っていいわ。私を中心にGRASP(グラスプ)の魔術をかけたのならば、颯姫の事も見えたはず……」
「それは……」

 紫城が言わんとしている事は、少なからず颯姫にもわかった。
 自分自身が関係している事なのだから。

「私が一条家最後の一人である――それが妖魔に知れた、と」
「つまりは、そういう事よ」

 紫城は軽く言うと、カクテルをとうに飲み干して空になっていたグラスを手の中で持て余していた。

「ただ、相手がどのような手段を用いて私たちの前に現れるかは、わからないのよ。こちらの行動は、ある程度であれあちらは知る事ができる……けれど私たちにはその手段は、ない」
「――とすると、私たちは相手の出方を待つしかないって事ですか?」

 バックバーへと向きながら颯姫は言った。
 そして棚の奥の奥に置いてあったブランデーのボトルを取り出す。
 アルマニャック古酒だけを扱うフランシス・ダローズのドメーヌ・ドゥ・ペイロ。
 ゆうに六十年以上もの長い期間熟成された逸品は颯姫にとって、とっておきの極上品でもあるのだ。
 滅多な事では人前に出さないほどに。

「おそらくは、それしかないでしょうね」

 紫城は微かに嘆息した。

「まったく……嫌なものね。こちらには相手の行動がわからないのに、あちらにとっては私たちの行動が多少なりとはいえ筒抜けだなんて。不愉快にもなるものだわ」

 毒づくような紫城の様子を見て、颯姫は肩に入っていた余計な力が抜けていくのを感じた。
 そして良く磨き抜かれたグラスを二つ、目の前に掲げる。

「楓さんでも愚痴る事ってあるんですね。飲み干されたカクテルのかわりに、とっておきのブランデーはいかがです? うち……アレキサンドライトの秘蔵っ子、ドメーヌ・ドゥ・ペイロですよ」

 軽い調子の颯姫の言葉に、紫城は思わず笑みをこぼした。

「あら、嬉しいこと。私の好みを覚えていたなんて」
「もちろんですよ。当たり前じゃないですか」
「そうね、ストレートでいただこうかしら。少しもったいない気もするけれど、颯姫にはこれでムーンライトを作って差し上げるわ。久し振りにね。今日は気の済むまで飲んで、話しましょうか」
「いいですね……楓さんのカクテル、もう何年もいただいてませんし」

 互いに微笑みを交わす二人。
 夜の闇が一層濃くなった頃。
 アレキサンドライトの店内には、二人の話し声と静かな音楽が流れているのみだった。












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